昭和46年05月24日  朝の御理解



  御理解 第40節
 「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうではないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」

  本当に金光様の御信心は、楽なもんじゃ、ね、自分が仕事をしながら、信心をさせて頂くんだと、重い物を担いでおると云う訳ではなし、「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうではないから信心は楽じゃ」と「家業を勤め勤めするがよい」と。またその前に39節にはと、やっぱり同じもの、「此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。」家業そのものが行じゃと、家業そのものが修行だと。
 ですから結局けれども信心して頂きたいものは何かと言うと、有り難いと云う物、ね、信心のまあ妙、妙境とでも申しましょうか、是れは信心をしなければ頂けない、心に喜びを感じれれると云う事。また同時により頂きたいのは、それに伴なうおかげなのである、その喜びが頂けおかげが頂けれる程しの家業の行であり、または家業を勤め勤めするが良いと仰る、勤め勤めする家業と云うその中には、その喜びが湧く様な、またはそれにおかげが伴なう様なおかげがね、伴なわなかったら駄目なんです、ね。
 だから此の金光様の御信心は楽じゃなぁと、家業をつとめつとめ出来るのだから、また火や水の行じゃないからもう行が、家業そのものが行じゃから、ね、成る程そうなんだけれどもです、うんならそこから信心の喜びが湧いて来ると云うおかげを受けなければならん。その喜びにおかげが伴のうて来なければならんのである、いやもうちっと言うと、そう云う家業の行とか、勤めつとめする信心の中から、ね 神様の御神徳を受けなければならんのである、ね。
 だからそう云うおかげが受けられて、受けられるなら、成る程家業を勤めつとめするが良いのであり、成る程火や水の行はいらん、家業の行を、本当に行として出来た時に、お徳も頂かれれば、おかげも受けられる、また喜びも頂かれると云う事になる。ところがただ金光様の信心は楽じゃなと、ただそう言う安易な頂き方をすると、是れは大変間違うて来るんです、ね。
  私は今日はこの40節を頂いて40節、またその前の39節を頂いてまあ同じような意味の事だと、所謂火や水の行じゃない家業の行とか、家業を勤め勤めするのが、がするが良いとかと、いう39節40節をこう続けて頂いてです。私はまあ言わばヒントを頂いたんですけれども、40節と39節と云う事はね、是れは40節は「しじゅう」と云う事「始終」と云う事は何時もと云う事、39と云う事は、是れは所謂「サンキュー」と云う事、だからサンキューと云う事は有り難いと云う事、ね。
 ですから私共がその様に家業の行とか、成る程重い物を担いで行っておるわけじゃない、家業を勤め勤めする、出来れる信心だから、楽なんだけれども、その楽なその信心から何時、始終、何時も有り難いと言う物が湧いて来る程しの、家業の行に取り組めたら、是れはもう結構、御神徳も頂けるだろう、勿論おかげは勿論の事、勿論信心の喜びはそれこそ尽きぬ喜びに浸る事が出来るであろう、と言う風に私は、此の40、39節から感じたんです、言わばヒントを得たんです。
 成る程金光様の信心なみやすいなぁと思うておったけれど、此処になって来るとです、私共がいかに教会におる時と自分の家庭での、例えば生き方すらが、変るのが私共であり、凡夫人間の事であります、ね。是れは私が良く申します事ですけれど、以前申しておりましたあれですけれど、まあ人が段々おかげを頂いて、まあ自分から、言わば我情がとれ我欲が取れ、言わば有り難い有り難いと思えれる様にならせて頂いた。
 こう云う様な心の状態で私が商売をしておったらもう、もう本当にどげん儲かるじゃら分からんって思もった、言うたり思うたりした、皆さんも聞かれた事がある、ね、何十年信心させて頂いておったけれども、ね。もう言うならば、我情我欲言う一杯いで、昨日あの、ね、月次祭の後の、教話では無いですけれども、は、願えば確かにおかげを下さる、ね、それがそうに私共が言う通りと云う訳じゃ無いけれどもです。
 成る程信心しとる者とせん者の違いをです、お願いが出来る、おかげが頂けれると言う、そのおかげがあるから何十年間信心も止められなかった、商売の上にでも、家庭の問題の上においても、ね。我情我欲一杯の商売をさせて頂きながらも、やはりお繰り合わせを願うて行くと、ちゃんとお繰り合わせを頂けた、ね。だからそれでは、お徳も受けられないし、なら信心の喜びと、と云う事にも触れられないし、その喜びに伴のうて来ると云う様おかげは勿論頂っく。
 ただ願うてからおかげを頂いておったと言うだけの事、ね。 私が椛目の時代に、ね、お商売を、全然いたしません、ただ参って見えられる方達に、神様のお話さしてもらい、お取り次ぎさして頂いて、人がどんどん助かっていかれた、だからそう言う心の状態でです、家業の行が出けたらね、いわゆるこげな状態で商売しとったら随分儲け出さして頂く事であろうとよく思った事です私自身、ね。
 ですからね、其処迄になる、なって参りましてから初めて火や水の行じゃない事が分かり、ね、成る程家業を勤め勤めさして、家業を勤め勤めさせて頂きながら、信心させて頂くと云う事が、有り難いのだ。その家業の行の中から、神様の御信用、御神徳も頂けれるんだと云う事です、是れは特別な人はまた別かも知れませんね、本当に家業の行そのものが、によってですお徳を受けておると言う人があります、ね。
 是れはもう先ず無いと言うていいぐらいに、なら至難な事じゃないかと思うですね、其処でまず先に求められるのはです、言わば我情我欲を外して、我が身は神徳の中に生かされてある喜びを分からしてもろうて。その喜びを分からして頂いて、その喜びを持ってそれぞれの持ち場立場と云う所に信心が生きて来る、百姓は百姓をしながら商売人は商売をさして頂きながら、勤め人は自分の勤めのその現場においてですね。
 いわゆる我情我欲を放れた信心生活が出来る、なるほどこれは楽な事じゃ、何時もかつもソロバン持っとくこつがいらん、商売人で言うなら。ですからこれは私は39節40節続いて、まあ同じよう、まあ続いて頂かなければならない御理解だと思うんですけれども、これれにはね、始終有り難いと言う心が湧く程しの信心がでけて初めてこれれは出来る事だと思いますね。
 それを私共は手前の方で頂いて、金光様の御信心な楽じゃと、家業を勤め勤めするが良いと、此の金光様の信心の修行はもう火や水の行じゃないから、全然他の宗教とは違う家業の行じゃと、家業の行、行するからには力を受けなきゃならないね。修行には、ね、力がお徳が付く、必ず伴なうもの、その力にお徳におかげが付いておるもの、と言わば力が付く程しの家業の行であり。
 勤め勤めする家業の中から、力が頂ける程しの信心生活、でなからなきゃならんと言うですね、実を言うたら是れは大変難しい御理解なるんですね。昨日学院のに行っとります末永さんから、手紙と一緒になんか厚いものを、アルバムの様な物を送って来てなんじゃろかと思って開けて見た所が、三代金光様の青壮年そして老、老境に入られてからのお写真を一冊に纏めてある、いわゆる写真のアルバムでありました。
 是れは、此処でもあの沢山纏めて買わせて頂いて、あんまり皆に上げてしまって自分のが無くなってしまっておった、それを末永さんが送って、まあ来てくれた訳ですけれども、もうあの人が学院に入りまして、もう長々と手紙を書いてずーっと出しますのが、もう五回、昨日んとで五回ぐらい来ております。まだ他の修行生は誰も出しません、ま末永さんだけです、山田さんが一回ただけは付いたと言う。
 まあ連絡の様な手紙を出して来ただけである、まぁだなんちゃ、まぁだ兎に角追われて、でその忙しいばっかりの中から、でしょうから、出せるのもせんない事ですけども。その度々の手紙に、もう愈々合楽の信心の有り難さに触れさせて頂いて、もう有り難たして有り難うしてと、もう云う様なその体験を、頂いておりますから、その都度都度に、便箋、便箋4枚も5枚も書いて、よこす訳です。
 よく信心の稽古をしておる者には勝たんと思いますよね、本気で、昨日の手紙も、学院生一同で三代金光様の、在りし日の、映画を見せて頂いて、もう始めから最後までもう感泣のし通しで御座いましたとこう言う、出らして頂いてこの喜びを金光様にお取り次ぎを頂いてお礼を申させて頂こうと思うて、丁度、教徒社の横を通りますから、教徒社にちょっと寄らして頂いたら。
 一番その、ちょっことの処に、えぇその三代金光様の、お写真が出ておった、値段見たら幾らいくらと書いてあるから、是を買わして頂いて是れを親先生にお送りしようと思うてそれを買うて荷造りしてもらって。あの御広前に出らして頂いた、金光様にその事をお礼を申さして頂いたら、大変な、もうそれこそご機嫌麗しいお取り次ぎを頂いて、ね。それから御神米が4体下がった。
 しかも墨黒々と、末永氏というお書き下げまで頂いた、もうそれはそれは、もう兎に角神様が見通しだと、御神米4体と言うのはね、金光様の御信心のする者の全てが願っておる事なんです。私ですら、私ですらっち言うちゃならんけど、一回頂いただです、だから、信心っ、金光様の御信心さして頂く者の是れは辞表としてですね、「御神米を4体お下げて頂けれる様になりたい」と言うのがもう金光様の信心さして頂く人達の願いなんです。金光様からね、4体の御神米を下げて頂きたい。
 頂けれる様な信心になりたいとこう言うんです、しかもまだ修行に入ったばっかりの末永さんに、墨黒々と大きく末永氏という御神米、末永氏というお書き下げ頂いた、ね。だからそれは、何がそう云う事にならせて頂いたかと言うと、言うならばみっちり4年間、本気での信心修行さして頂いた、皆さんもご承知の通りの信心の修行が出けました、ね。そのみっちりとした、信心。
 いわゆる、本当の信心修行が出けて、初めてです、ね。例えば金光様のお写真、その触れて感動し、感泣し続けると言った様な、受け物が出来るものなんです、ね。神様が見通し、全信奉者が一つの願いとし、信心の理想を其処においておると云う程しのおかげを、けれども此処に一つ自分で感じさして頂いた事は、不思議な御神米の包装の仕方がしてあった事ですと書いております。
 こうやって御神米3体包んである、それで一番上、上の処に1体はこうやって入れてあったっち言うんです、是れには深い御神意がある事であろうと、普通なら4体を一緒にこう包みなるんですけれどもね、3体を包みになってその包んどる一番上の、上の処に1体をこう入れてあった、念が入っとるね。其処にまあ是れからの末永さんの信心を掛けられる訳で御座いましょうけれども、と言うても勿体無いことである。 
 私昨日お祭りが済んでから、しばらく茶の間で皆さん、昨日あの堀江さんが見えておられて、なんか設計図の説明があっておりましたから、待っとりましたけども、まあ、済みそうに御座いませんし、なんかその、ちょっとこう油っ気の物を頂いたら胸が焼けて胸が焼けてしようがない、だから「もう私は先に御無礼するよ」と言うて休ませて頂いて、勇さんの奉仕を受けさせて頂いて、で。
 そうですね五分ぐらい揉んで貰らったでしょうか、手を放しなさると痛む、手を当てて貰うと痛まない、その五分ぐらい続きまして手を外して貰ったらもう痛まない、「まあ何時もの事ながら繁夫さん、あんたの手は大した手ですね」っち言うちから私は揉んで貰いながら申しました。(笑)もう本当に是れはもう不思議で不思議でたまらん、有り難うして有り難うして応えん、ね、どうしてその繁夫さんの手がその様な、重宝なものがね、とても一丁一石でそう言うおかげを受けられたとは思われないっち、ね。
 言うならばもう十四・五年もなりましょうか、私の足を直接御用して下さる様になって、皆が言う事、「足が痛い肩が痛い、繁夫さんに揉んでもろうたらおかげ頂いた」と、兎に角手が触っただけで痛みがピシャっと止まるんですからね、ね。それこそある場合には泣く泣くでも辛抱しながら修行された、もう眠うして眠うして眠り倒れるごたるあっても是だけはと、修行し続けられた、どうでしょうか、ね。
 此方の行は家業の行じゃから、もうちゃんとお野菜作りに一生懸命なっとりゃおかげが受けられ、そう言う果たして徳が力が受けられるだろうか、ね。それこそ信心のなん、修行生とは言いながら、本気での信心修行にも取り組まずしておって、果たして金光様から、4体の御神米をお下げ頂けれる程しの、おかげが頂けれるだろうか、ね。其処の信心修行を内容として、それこそ自分の心から始終喜びが湧く程しの処まで。
 修行が頂けて初めてその喜びを持って、家業をさせて頂く事になればです、ね。その家業そのもので力を受ける事が出来るでしょう、喜びも又尽きぬ喜びを受ける事も出来るでしょうね。其処まで到って初めて金光様の御信心は楽じゃと云う事にもなりますね、ただもう兎に角金光様の御信心はね「そげんぼうけたごつなって参らんでんよか」っち、もう参る者がおかしかっと云う様な信者さんがありますよ此処にもいくらも。
 「あんたんごと日参りお参りする者の気持ちが分からん」っち言う人が、「金光様の信心はちゃんとまた家業の行っち言うちゃるじゃないですか」という風に、その家業の行をそのような程度に頂いたんではです、成る程昨日からも申しました。お願いすれば、おかげは受ける事だけは間違いないって、けれどもね、いわゆる本当のおかげになっていかない、今日私が言うそれでは、始終喜びが沸かない。
 、だからさあ何か家で、ふつっと、ね、難儀な問題が起きて来ると、もうそれで顔色もなからなければうろたえ回っとるじゃないですか、力がない証拠です、ね。火や水の行も良かろう、ね、場合にはこと神様の事と言うたら、家業を放ったらかしてからでも、その事に打ち込ませて頂く信心修行もまた大事である、そう云う言わば厳しい信心修行させて頂いて、おかげを受けて行くんです、ね。
  昨日月次祭に幹三郎がお話させて頂いた、それを聞かせて頂いて、何やらかにやら意味は分からなかったと佐田さんは言うておられる、私共ももう耳が遠い、私遠いからもう、あの人の話をこうやって聞かせて頂いて、まああそこ此処を分からして聞かして頂いた事はですね。今月の合楽の信心の焦点が、「真心とは神様に喜んで頂く心」だと、云う心に取り組ませて頂いておりますけれども、中々持って難しい。
 心では分かっておるけれども体が言う事を聞きませんと云う意味の事を話しておった、それを後は先にこうしてお話しをしておりますから、聞いておって意味は分からなかった。けれども訳は分からなかったけれども、感動して感動して仕方がなかったと佐田さんは言うておられます、ね、しかもその感動させて頂きながら、お知らせを頂かれた事は、御心眼に受けておられる事はです、ね。
 「道の無い所に道がつく」と云う事を頂いておられますです、ね、道が無い所に道がつく、しかもその道が無い所に道がつくだけではない、それこそ青の同門のような、ね、いわゆる、固い岩石の山ですらも、それを貫いて向こうへ通る事が出来、しかもそれは限りなく向こ~うの方まで繋がっておる道を頂いたと言うておられます。私は昨日の御理解は、もう御理解頂き終わってしもうて自分が有り難い一方で。
 一生懸命お話さして頂いた後でです、自分だけが分かっておって果たして皆に分かってもろうただろうかと、何回もまたお話をしたことを思うて見ました。もう素晴らしい事だと、が私だけが分かって、その私だけが何時にいって一生懸命お話しただけであって、あれが皆さんに少しでも分かって頂いただろうかと思うて、後でその事を、また神様に改めて願わして頂いた事でした、ね。
 幹三郎が言うております、ね、今月の焦点である所に神様に喜んで頂きたいと思うその心がです、取り組むけどもなかなか難しいとこう言う、うんならその幹三郎の日頃の信心と云う物は、どう云う事になっとるかと言うと、もう例えば自分には気が付いちゃないけれども、それだけでも大した修行が本人にしては出けておると云う事。今朝なんか私も三時には起きとりました、あちらの時計で三時十五分、十五分進んでおります丁度三時に起きておる起き洗面して、部屋に入りましたらもう起きておりました、ね。
 しかもそれがです、ね、あの退院以来からずーっと続け、続けられておると云う事、ね、しかも昼は昼であの人なりの信心をさして頂いておると云う事、もうそれだけでも神様が喜んで頂く言うならば、と私はまあ思うので御座いますけれども、そう言う信心を一つの信心の土台にしてなおかつ今月の信心の焦点である焦点に取り組む事がね、難しい出けはしないけれども、それが一歩一歩半歩づつでも進んで行きよるならば、絶対道の無い処に道が付くと云う事なのだ、ね。
 例えて言うならば、この信心がまだ此の侭続いて参りまして、言わば幹三郎があらっ荒地の布教に出る、金光様の信心信者ちゃぁまだ金光様を知らない、ね、道のなんも開けてない処に布教に出るとするか、けれども此の修行が積み重ねられて行った時分、道の無い処に必ず道が付くっちこの信心なら、ね。しかも青の同門の様な、ね、言わば様なね、固い石の前に、それが直面しても。
 れをほがして行く程しの、おかげになってしかもその道はずうっと限りなく向こうの方まで繋がっておるであろうと、お知らせ、佐田さんに申しました。「今頂いたね、幹三郎のお話の内容の事ですよ」っち、と言うて夕べも申しました事で御座いますけれどもです、そう言う信心がです、私は決してみ易いとは思われない、けれども一心発起、其処から私共が出けんでも、その事を繰り返し繰り返し、ね。
 それこそ蛙が柳に飛びっ、と言うあの古いお話がありますね、(おののとおふう)の、いわゆる出けなくてもそれを辛抱強う飛んで行きよる内に何時かは必ず、鳥に飛付く事が出来るような、私は信心辛抱がなされて。其処ん処から信心のなんたるかが分かり、喜びが分かり、力を受け徳を受けさして頂いての、私は家業の行であらなければ、言わば始終サンキューと云う事にはならないのです、ね。
 ならば成る程信心はみやすいと云う事にもなる、ね。だから信心によって本当の幸せを頂こうと、いや信心によらなければ幸せと云う事は在り得ません事実、だからその神様が下さろうとする人間の本当の幸福を、頂かせて頂く為には、百姓で良かろう、商売人でも良かろう、勤め人でも良かろう、その商人が百姓が、または勤め人がです、自分の持ち場立場においてです、
 そう言う信心の喜びを持って、我情も無からなければ我欲もないと言う状態でです、商売が出来るなら、もう是れは大繁盛はもう絶対間違いのない事、ね。成る程家業を勤め勤めするがよいであり、此方の行はもうそこには火や水の行を求められる事はない、その行そのものが喜びの中にある、家業であるとするならば、もうそれが修行でないはずがないと云う事になる、だから是れはね安易に頂きますとです、いわゆる金光様の信心ちゃぁ本当に簡単で、簡単っち言うかみ易ぁすう楽に出来ると。
  成る程楽に出来るお願いして、我情我欲いっぱいで商売しておっても、私の過去何十年間を振り返って見てですたい、我情我欲いっぱいな商売をさして頂いておりながら、やはりお取り次ぎを頂いてお願いをすれば、願う前よりも良いと云うおかげを受けられる、ね。だからそれに腰掛けておると言った様な事じゃなくて、何かの其処に機会が与えられた時にです、本気での自分の我情が取れて行く。
 我欲が取れて行く楽しみ喜びを自分の信心とさしてもろう程しの修行でもさして頂いて、ね、その上に家業である事になって参りましたらです、其処の39節また40節の本当の神意と云う物はね、信心の言うならば目指すと云う処が、ね。やはり信心生活、ですがね、喜びと云う物が土台になからなければならん事は皆さんもご承知の通りなんです、でその喜びが、ただ、ね、家業をしながら、ね。
 我情我欲で家業をしながら、お願いをしておかげを頂くと云うだけぐらいな事で、頂けるもんじゃろうか絶対に頂けない、ね。厳しい様ですけれどもその厳しい本当に、修行に取り組まして頂いて、ね、信心の例えば是だけの事はいっぱし出来ながら、それでも尚且つね教えに取り組んで、出来る出来んは別として、取り組んで行く程しのおかげを頂いて、初めて出来ることでは無かろうかと云う風に思うので御座います。
    どうぞ。